『世界ナゼそこに?日本人』でインドネシアに広まったとある日本食”イシイ”という食品が紹介されます。
その名前のような日本食”イシイ”を広めたのが石井正治さんという方だそうですよ!そこで日本食”イシイ”についてと石井正治さんの嫁や子供などのプロフィールが気になるところです。
なので本記事では日本食”イシイ”と石井正治さんの両方をwiki風にまとめていこうと思いま~す!
目次
日本食”イシイ”とは?インドネシアとどんな関係?
日本食”イシイ”とは石井正治さんが考えて作り出しだ食品だからイシイというそうです。
どんな食品かというと、実は単なるこんにゃくです!インドネシアでこんにゃくが作られてそれが日本へ輸入されていました。
その当時そのこんにゃくは石井正治さんが作り出すまで、作られていなかった商品だったためイシイと呼ばれていたのでしょう!
ですが、現在もそのこんにゃくの商品は作られていて、インドネシアからムカゴこんにゃく芋を主原料として『乾燥糸こんにゃくぷるんぷあん』という商品名で売られています!
ただ、これだけの説明では、なぜこんにゃく糸でココまで話題になったのかや、どのような歴史があるのかが分かりませんね。
というわけでその事に関しては石井正治さんのプロフィ-ルを確認していきながら確認していきます!
石井正治さんのwiki風プロフィ-ル
名前:石井 正治(いしい まさはる)
生年:1916年
享年:86歳
出身地:北海道
職業:元軍人、会社経営
石井正治さんは大正5年に北海道で生まれました。釧路中学校を卒業後、徴兵検査を受けて近衛騎兵連隊に所属します!
近衛騎兵連隊はエリート軍団らしく、当時の日本人の価値観だと両親からはかなり喜ばれたそうです。そんな元軍人として活躍していた石井さんは満州事変や第二次世界対戦真っ只中に中国の広東省に出征しました。
その後ベトナム・タイ・シンガポール・マレーシア・インドネシアと進軍していったそうです!そしてインドネシアに石井さんがいる際に日本が敗戦をして終戦になりました。
日本が負けてショックだった石井正治さんは色々な問題に直面しながらもインドネシアで生き延びて、1964年にインドネシア国籍取得してインドネシアで生活することに決めました!
そしてインドネシアで生活している際に、「インドネシア人のこんにゃく芋を捨てている姿を見つけたそうです」
その当時日本では、こんにゃくブームのような感じでこんにゃくが大変人気だったそうです。なのでこのこんにゃく芋を日本に輸入してインドネシア人の雇用や収入を増やすことを成し遂げたそうです!
その結果、大成功を果たしインドネシアの人からは感謝されるようになり、日本とインドネシアの架け橋になったとして日本人からも感謝されたそうです。
素晴らしいですね!それでは最後に石井さんの家族について調査していきましょ~う。
石井正治さんの嫁や子供は?
石井正治さんの奥さんはクスマデリさんという中国の方らしいです!奥さんは1990年という石井正治さんよりも早く亡くなってしまいました。
子供については石井さんが「一部屋に6人家族で生活していました」と過去に発言しているので、子供は4人いたと思われます。
4人全員の名前は分かりませんが、長男の名前はヤントさん、次男の名前はヘンリーさんであることはわかっています!
というのも、2人は石井正治さんが経営していたアンビコ社を引き継ぎ、現在ではヤントさんの長男(つまり石井さんの孫)のジョハンさんが工場長を務めているからです。
インドネシアの一部屋を6人家族で生活していたのは結構大変だったことが想像できますね!
石井正治のwiki風プロフィール!インドネシアに広めた日本食”イシイ”とは?<まとめ>
いかがでしたでしょうか!
- 日本食”イシイ”というのは石井正治さんが日本に輸入し始めたこんにゃくであったこと
- 石井さんは元軍人で家族は6人だったこと
などが、わかりましたね。
戦争の時代の大変さを改めて感じましたね、この時に比べればの話ですが今は幸せなのかもしれませんね!
というわけで今回はこの辺で終わります。あと、『世界ナゼそこに?日本人』でご紹介された花火職人でベルリンの壁崩壊の立役者となった佐藤勲さんについての記事もあります!
なのでもし気になる方がいましたら、是非チェックしてみてくださ~い。

では最後まで読んで頂きありがとうございました!